サクラの降る町 ―白ノ帳― 試し読み

それから数日間、白いアマザクラが降ることも、愛里の状態が持ち直すこともなかった。悪い予想ばかりが当たってしまうことに苛立ちながらも、私たち家族は状況が好転するのを祈ることしかできなかった。
クリスマスを目前に控えた二十二日。私は病院を訪れていた。
愛里の病室の扉に手をかけると、沙里さんの声が中から聞こえた。
「愛里までいなくなったら、私どうすればいいの……」
愛里まで。というのは、昔亡くした愛里の双子の妹、莉亜りあのことを指しているのだろう。
私は聞こえなかったふりをしながら扉を開き、沙里さんの横に立った。
沙里さんの目の下にはクマができていた。ここ数日よく眠れていないのだろう。もともと彼女は繊細で、気の強い人間ではない。愛里の現状は重くのしかかっているはずだ。
「沙里さん。私、午後はちょっと出かけてきます。こんな時に、すみません」
愛里のことが心配じゃないのか、などと怒鳴られてもおかしくはなかったが、彼女はうなずくだけだった。
アマザクラのことには触れないよう言葉を整理してから口を開く。
「愛里ちゃんを勇気づけられるようななにかが必要だと思うんです。それを探しにいきたくて」
お医者さんも言ってたものね。昏睡状態の患者さんが、呼びかけで目を覚ましたことがあるって」
沙里さんがベッド脇のキャビネットへ視線を移す。そこには、クラスメイトからの音声メッセージが入った音楽プレイヤーとスピーカーも置かれている。今までも、それを流すことで愛里の感覚や意識を刺激してきた。沙里さんは私の説明を聞いて、さらにメッセージを集めてくるつもりなのだと理解したのかもしれない。
「でもね、私の気のせいかもしれないけど、ルカちゃんがお見舞いにくると、愛里の表情が緩んでた気がするの……。だから、ここでルカちゃんが声をかけてくれるだけでも、きっと愛里の力になると思うわ」
私は沙里さんの優しい言葉を素直に受け取ることができなかった。
「私は、自分の呼びかけに価値があるとは、思えません……」

私は一度帰宅し昼食をとったあと、近所の図書館へと向かった。
図書館のホールには、利用者の足音と貸し出し窓口の会話だけが響いている。
私は窓際の席で〝夢〟というワードでヒットした書籍を手あたりしだいに読みあさっていた。だが、アマザクラとの関係を記したものなどあるわけもなく、レム睡眠とノンレム睡眠の違いなど、もともと持っている知識を補強するくらいしかできなかった。
「そりゃそうよね……」
ため息をつくと、傍らに置いていたスマホの画面が光った。メッセージアプリに入ったツバサからのメッセージだ。授業中のはずでは、と思ったが、九重高校の終業式が昨日だったことを思い出す。
《確認してみた》
《ヒヨリも夢の中で、白いアマザクラを見たことあるみたい》
《しかも記憶をもとにした夢で》

《偶然にしてはでき過ぎてる》
《白いアマザクラはやっぱり夢と関係がある?》

《そうっぽい》
《ちなみにルカ、今家?》
《今は図書館で調べもの》
送信ボタンを押したところで、絵本コーナーで男の子が声をあげた。職員に静かにするよう注意されるが、それでも彼は窓の外を眺めていた。
「雪だー!」
男の子の言葉につられて外の景色を確認する。確かに窓の外では、小さな白い粒が舞い踊っていた。しかし、一粒一粒の挙動は雪とは違い、ひどく不規則だ。ジグザクの軌道を描きながら地面へと落ちてきている。
「アマザクラ……」
私は立ち上がり、本や鞄をその場に置いたまま図書館を飛び出す。冷え切った空気の中で舞っているのは白色の花弁だった。
映像などではなく、私は自らの目で、白いアマザクラが空から降っているのを確認する。
なにか目的があったわけでも、明確に観察したい部分があるわけでもなかった。なにかしなくては、という焦りだけが湧いてくる。
空を見上げていると通行人とぶつかりそうになった。それを避けた時、視界の隅で白い小さな塊が動いた気がした。
目をこすってからもう一度観察する。通行人が行き交う先に先日駅前で見かけたのと、まったく同じ白いウサギを見つける。
「ウサギ……?」
前回と同じく、周りの人間にウサギは見えていないようだった。ウサギは赤い目を私に向けてから、後ろ足で地面を蹴って細い路地へと飛び込んだ。
ただの見間違いかもしれなかった。それでも私はなぜかその方向から引力を感じ、路地の中へと入っていく。
路地は学生服の専門店と雑貨屋の間にあり、人がすれ違うのがやっとな広さだった。十メートルほど先で行き止まりになっていて、ウサギはその奥にいた。体を丸めながら微動だにせず私を赤い目で見つめている。
薄暗い路地の中でウサギの毛並みがぼんやりと光っている。足元に影はなく、まるで出来の悪い合成写真のようだ。
一歩、二歩、と近づいていくが、ウサギが逃げることはなかった。私はしゃがみ込み、手を伸ばす。
私の指がウサギの鼻先に触れる寸前、路地に強い風が吹き込んできた。二つの建物の隙間になだれ込んでくる空気の流れは、運ばれてきた白い花弁と共に私の体にぶつかった――。

*   *   *

風は私の肌を数秒間こすり続けてから消えた。だんだんと弱まっていったのではなく、突如として風圧がゼロになった。
ゆっくりとまぶたを開くと、
まるで白黒映画の中にいるかのようだった。樹木に生い茂る葉も、校舎の壁も同じ灰色をしている。そこにはわずかな濃淡の違いしかない。
校舎の壁?
頭が冷静さを取り戻せば取り戻すほど、自分の状況に戸惑った。
さっきまで目の前にあったはずの雑居ビルは消え去り、代わりに四階建ての校舎がそこに建っていた。私がいるのは路地ではなく、学校の校庭だ。
「なんで……」
周りでは小学生たちが走り回っていた。中には体操着を着ている児童もいる。先ほどまで私がいた路地にあった学生服の店でディスプレイされていたものと似ていた。
小学生だけではなく、教師らしき大人もいたが、誰も私の存在など気にも留めていなかった。まるで幽霊かなにかにでもなった気分だ。
ここは現実ではない。だがその割には、私の心はなぜか落ち着いていた。戸惑ってはいるが、恐怖や危機感はない。非常識を疑う頭の感覚が半分麻痺しているかのようだった。
「これは、夢……?」
私は路地で風に吹かれて転倒し、意識を失ったのだろうか。
「でも、じゃあ、ここは一体……」
近くにいた小学生の体操着には《蕾ヶ丘つぼみがおか小》と刺繍がされている。峰上市の反対側にそういった名前の地域があることは聞いていたが、私は一度も訪れたことはなかったはずだ。
自分の記憶にはない場所に、今私は立っている。
ふと、小さな女の子の声が耳に飛び込んできた。
「ダメだよアカリンゴ! 戻って戻って!」
声がしたのは校舎の角だった。そこでは一匹のウサギがたたずんでいる。さっき私が追っていたウサギと同じ白い毛並みをしていたが、その目は色のないこの世界の法則に則っている。花壇に咲くバラの花と同じように、赤い瞳は濃いグレーになっていた。
「もー元気過ぎだよ」
校舎の陰から一人の小学生が現れた。彼女を見た瞬間、全身に鳥肌が立つ。
「愛里、ちゃん……?」
白い肌に、長い黒髪。身につけた色の濃いワンピース。彼女がしゃがみ込んでウサギを捕まえる際、彼女の三つ編みがゆらゆら揺れた。
そこにいたのは、小学生時代の愛里だった。
状況を理解する前に体が動く。
「愛里ちゃん!」
駆け寄ってみるが、彼女はなんの反応も示さない。肩を掴もうとしたが、私の手は彼女の体をすり抜けた。
愛里はくるりと向きを変え、校舎裏へと歩いていく。
彼女が歩いていった先には飼育小屋があった。木材とトタンで作られた小屋は二つに仕切られていて、それぞれのスペースで小鳥とウサギが飼育されていた。
愛里が飼育小屋の扉に手をかけた時、サッカーボールが私の横を抜けて、コロコロと彼女の元に転がった。それを追いかけるようにして一人の男子児童が現れる。
「あいりあ。お前らまたウサギの世話してんのかよ。ウサギくさくなるぞー!」
「なんだとぉ!」
男子に言い返したのは、ウサギを抱いた愛里ではなかった。飼育小屋の中から飛び出してきた、短髪の女の子だ。
「面倒見るのは三年三組の仕事なのに、お前らがサボるからあたしらがやってんじゃん!」
短髪の女の子がサッカーボールを蹴飛ばす。まっすぐに飛んだボールは男子の顔面に命中した。
「いってぇ! なにすんだよ!」
「ボール返してやっただけだっての! ちゃんと受け止めろ!」
時間差で痛みを認識したのか、男子は頬を押さえながら走り去っていった。そんな男子の背中に、短髪の女の子はあっかんべーをしてみせた。
彼女の肌は日に焼けていて、目の上に絆創膏が貼ってあった。体操着にジーンズという活動的な恰好と、男の子のような短い髪型をしている。
だが彼女の目鼻立ちは、ウサギを抱いたまま戸惑っている愛里とまったく同じだった。
先ほどの男子が叫んでいた〝あいりあ〟とは、今私の目の前にいる二人の女の子の名前をくっつけた呼び方なのだろう。
「先生に言いつけるかもね」
「あいつが先に変なこと言ってきたのが悪いんだ!」
ワンピースの女の子は私と出会う前の〝愛里〟で――。
彼女と話している短髪の女の子はその双子の妹〝莉亜〟――。
「まさか、ここは……」
私の記憶にはない場所。時間。そして、小学校時代の愛里と、その妹の莉亜。
頭でなく、心で私は理解する。
ここは夢の中で再現された、愛里の記憶の世界なのだ。

愛里は抱いていた白いウサギを飼育小屋の中に戻した。ウサギはぴょんぴょんと彼女の足元を跳ねまわる。彼女に懐いているようだった。
「そういや、なんでそいつアカリンゴなんだっけ?」
莉亜がキャベツをちぎった手を体操着で拭く。
「六年生がつけた名前だよ。最初は目が赤いからアカちゃんだったんだけど、それだと人間の赤ちゃんみたいだからって、好物の果物を後ろにくっつけたんだって」
逸話いつわを聞いた莉亜がけたけたと笑う。私にはなにが面白いのか分からなかったが、彼女は笑いのツボを刺激されたらしい。
しばらくすると小学校の敷地内にチャイムが響いた。同時に愛里が慌て出す。
「あ、そろそろ行かないと塾遅れちゃうよ」
愛里が飼育小屋を施錠する。きびきびと行動する愛里の後ろでは、莉亜がむすっとした表情を浮かべていた。短髪の頭をぽりぽりときながら不満を漏らす。
「あーめんどくさー」
「でも塾行かないと。またお父さんに怒られるよ?」
「あたしは行ってもどうせ怒られるもん。お父さんは百点じゃないと許してくんないから」
「そうかもしれないけど……」
莉亜が足元にあった小石を蹴飛ばす。先ほどのサッカーボールとは違い、小石は斜めに飛んでいって校舎の壁にぶつかった。すると近くにあった窓から五、六十代くらいの女性が顔を出した。
「こら、石蹴らないよ」
「あ、茂草しげくさ先生!」
茂草先生と呼ばれた女性は白衣を着ていて、窓の奥には白いシーツのかかったベッドがあった。どうやら彼女はこの学校の養護教諭のようだ。
莉亜が、愛里から飼育小屋の鍵を受け取って窓際に走り寄る。
「先生、これ職員室に返してくんない?」
目じりのしわを深くし、いたずらっぽく笑いながら茂草先生はふいとそっぽを向いた。
「やーだよ。ちゃんと自分で返してきなさい」
「ちぇーケチー」
唇を尖らせる莉亜に、茂草先生は優しい声で尋ねた。
「ところで、話が聞こえちゃったんだけど、二人はお父さんによく怒られるの?」
莉亜はうつむきながら質問に答えた。
「怒鳴ったりはしないけど、お父さんいつも怖い顔してる。そんなんじゃ、まともな大人になれないぞ、とか、もっと女の子らしくしろー、とか。多分、お父さんはあんまりあたしのこと好きじゃないんだ……。いい子じゃないから」
「そんな風に感じるの……?」
「双子なのになんでこんなに出来が違うんだとか、完璧じゃないと意味がないんだぞ、って言うし。昨日も学校で喧嘩したこと怒られて、あたしだけ夜ご飯抜きだった」
しつけだと済ますには厳しい話にぞくりとする。もちろんこの会話だけですべてを決めることはできない。だが私は以前に愛里が漏らした言葉を思い出した。
――私もお父さんの夢見たら、嫌な気持ちになります。
茂草先生が窓枠に体重を預けながら身を乗り出す。
「食べれなかったの? お腹空かなかった?」
答えたのは、莉亜と茂草先生の会話を横で聞いていた愛里だった。
「大丈夫だよ。お母さんがおにぎり作ってくれて、私がこっそり持っていったから」
「ツナマヨちょー美味しかった!」
「ね!」
顔を見合わせて笑い合う二人を見ながら、茂草先生はどこか不安そうな表情を浮かべた。
「もしおうちのことで困ったことがあったら教えてね。力になるから」
「はーい」
二人は呑気な挨拶をして、また昇降口へと歩き出した。
「茂草先生優しーね」
莉亜が自分のおでこに貼られた絆創膏をぽりぽりと掻く。
「あたしが絆創膏もらいにいくと、まーたあんたかい! って言うけど」
「それ茂草先生の真似? 似てる!」
けたけたと笑いながら、二人は昇降口へとたどり着く。
そこには背の低い下駄箱がずらりと並んでいた。色のないこの世界では濃淡しか分からないが、学年ごとにペンキで色分けされているようだった。二人は《三年三組》と貼り紙のされた下駄箱へと近づいていく。
二人が下駄箱へ手を伸ばした、その時だった。
愛里と莉亜が、ぴたりと動きを止めた。二人だけではない。壁掛け時計の秒針も止まっている。動画を一時停止したかのように、世界が静止していた。
「愛里ちゃん!?」
彼女に駆け寄ろうとしたが、踏み出した足が昇降口の床に沈み込んだ。

私が守りたかった偽りの世界。君が教えてくれた真実の世界。

サクラの降る町 ―白ノ帳―

私が守りたかった偽りの世界。君が教えてくれた真実の世界。
  • 著者 | 小川晴央
  • Illustration | フライ
  • 発売日 | 2021年12月10日(金)
  • 価格 | 713円(税込)
  • ISBN | 978-4-910052-24-3