サクラの降る町 ―白ノ帳― 試し読み

「夢は、眠っている間に脳が記憶を整理するために見るそうよ」
「へー。頭の中で思い出を再生してるって感じなんですかね」
前方の踏切が下りる。立ち止まると、愛里は歩道脇の縁石に溜まった花弁に目をやった。灰色にくすんだ花弁は、あたりの枝木から落ちたものではない。今朝、空から降ってきたアマザクラだ。
「昔の夢を見たから、昔の気持ちも一緒に思い出して、こんなくすんだ花びらが降ったのかもしれません」
峰上市のアマザクラは、自分の感情に反応して降っている。前にも、そんな空想を愛里が口にしたことがあった。
――この町のアマザクラに心が覗かれているんです。嬉しい時は綺麗な花びらが降って、苦しいとか、悔しい時は汚い花びらが降ってくるんです。
彼女曰く、発光する不思議な花弁に触れた翌日から、この町でアマザクラが降り出したらしい。大人びた彼女らしくない、子供っぽい空想だった。
「そういえば、今日は、夢の中でもアマザクラが降ってたんですよ。真っ白な花びらでした」
「白?」
アマザクラの色はその時々で変化するが、黒色から薄紅色までのグラデーションの中に収まる。峰上市以外の降花地域でも真っ白な花弁というものが観測されたことはなく、私は彼女の話が余計にファンタジーなものに感じられた。

同居から一年が経ち、私が高校へ、愛里が中学へ進学した。
事件が起こったのは、お互いが新しい学校に慣れ始めた五月の頃だった。
その日、私は父の友人が開催する写真展へ足を運んでいた。父と愛里と共に三人で向かったが、父がその友人と仕事の打ち合わせを兼ねた食事に行くと言うので、私と愛里は先に家へ帰ることになった。
会場である百貨店を出たところで、愛里が口を開いた。
「素敵な写真展でしたね」
「確かに、プロの写真はひと味違うわね」
父はアマザクラの風景写真を中心に撮影する写真家だったが、父の友人は犬や猫などの身近な動物を被写体としていた。
愛里がお土産に購入したポストカードが入った袋を満足そうに持ち上げる。彼女が選んだのは、雪山の斜面でたたずむ白いウサギの写真が印刷されたものだった。
「ウサギ好きなの?」
「はい。小学校で飼ってたウサギを一時期世話してたことがあって。その頃から一番好きな動物なんです」
と遭遇したのは、飲食店が並ぶ通りを歩いている時だった。
目の前からやってきた一人の女性が、私と愛里の前で突然立ち止まった。ぶつかるのを避けるためにそうしたのかと思ったが、その女性は突然私の肩を掴んできた。
「ルカ?」
私はそこで初めて彼女の顔を確認した。彼女の目鼻立ちと、唇に塗られた赤い口紅を見た時、私の口から自然と言葉がこぼれ落ちた。
「お母さん……?」
五年前に私を置いて家を出ていった母親がそこにいた。顔つきにほとんど変化はなかったが、最後に見た時には長かった髪が今は肩の上で切り揃えられていた。
「やっぱりルカなのね」
彼女自身も私との遭遇に驚いているようだった。待ち伏せしたわけでもなく、偶然見かけて思わず声をかけてきたのだろう。
数秒かけて状況を飲み込んでから、自分が失敗したことに気が付く。
赤の他人を演じることが最もスマートな対応だった。母親が最後に見たのは小学五年生の自分なのだから。とぼければいくらでもやり過ごせたはずだ。
「元気、だった?」
戸惑っていることは分かるが、五年ぶりに再会した娘への第一声にしては、それはずいぶんと軽いものだった。
すると、一人の男性が彼女へ声をかけた。
「なに、知り合い?」
彼は親しげに母の腰に手を回し、私の顔をじろじろと確認してきた。
対処をいくつか考えた。皮肉を言ってもいい。恨み言の一つをぶつけてもいい。横に立つ男が家を出ていってから何人目の男性なのか尋ねてもいい。
だが、その中から一つを選び取る前に、右手を愛里に引っ張られた。
愛里が母親とは反対方向に走り出す。私は手を引かれるまま、そのあとに続いた。
道行く人の喧噪けんそうも、あたりの商店から漏れる雑音もそこには満ちているはずだったが、私の耳には自分と愛里が鳴らす足音だけが届いていた。
何度か角を曲がり、細い路地に駆け込んだところで、私は愛里に声をかける。
「愛里ちゃん。もういいのよ」
彼女は息を切らしながら立ち止まると、私たちが走ってきた方向を振り返った。
「でも……」
「大丈夫。追いかけてくるような人じゃない」
あの人は、私に対してそこまでの情熱を持っている人ではない。
愛里は切らした息を整えながら、誰も入ってこない路地の入り口を眺めた。
「ごめんなさい、ルカさんが〝お母さん〟って呼んだから、助けなきゃって……」
愛里は自分の行動に自分で驚いているようだった。
「ルカさん、前にあの人のこと苦手みたいなこと言ってたし、さっきも困ってるみたいだったから、思わず……。あ、ごめんなさい」
そこで愛里が握りっぱなしだった手を慌てて放した。手の平に残った彼女の体温がすっと空気の中に霧散していくのを感じる。
「困ってるように、見えた?」
愛里が申し訳なさそうにうつむく。
「私が同じ立場だったら困るかも、って思いました。あの人と、話したいこととかありましたか?」
「言ってやりたいことはあった気がするのだけど、今思うと、なにを言っても後悔していたような気がするわ」
突然の遭遇にさすがの私も混乱していた。彼女にぶつけたい感情はあったが、それをあの場で勢いのまま吐き出していたら、それは母親の存在に心が乱されたことの証明になってしまう。きっと私はそれをあとから思い出して、自分を情けなく思っていたはずだ。
「あの状況で一目散に逃げ出すなんて、愛里ちゃんにも豪快なところがあるのね」
それはいたずらが見つかった子供が取るような衝動的な行動で、自分一人では絶対に選ばない選択肢だった。だからこそ、首筋の汗や、ひりついたのどの感覚が新鮮で、爽快感すらあった。
「ありがとう。助かったわ」
愛里が目を丸くしながら固まった。
「ルカさん、そんな風に笑うこともあるんですね」
そんな風にとは、どんな風にだろうか、頬に手を当ててみたが、自分ではよく分からなかった。
「私も、笑う時は笑うわよ」
「あ、今は、ちょっと照れてます?」
まるで流れ星でも見つけたかのような表情で、愛里が私の顔を覗き込む。
彼女の視線から逃げるために私は歩き始めた。
ふと、愛里と暮らし始めてからすぐの出来事を思い出す。一度、愛里が沙里さんからアドバイスを受けて、私のことを〝お姉ちゃん〟と呼んだことがあった。そんな彼女に私は無理して親しく振る舞わないでほしいと伝えた。愛里の気遣いを無下にした私は、思わず続けて自己弁護をした。
――ごめんなさい。私は〝お姉ちゃん〟なんてやったことがないから。
情けない私の言い訳に、愛里は安心したように笑った。
――愛里もおんなじです。〝妹〟やるの、初めてです。
見ず知らずの相手が、急に姉妹になる。その一点において私と彼女は同じ状況にあった。
愛里は冷たい私とは真逆の人間だ。礼儀正しく、真面目で、思いやりがある。だから私たちの心の糸は、絡み合ってもいないし、結ばれてもいなかっただろう。でも、確かにその一ヶ所だけは交差していた。
だが、そんなささやかな気付きも、愚かで自分勝手な私は結局台無しにしてしまう。

十一月。高校の校則に合わせて新しく用意したコートが体に馴染んできた頃、峰上市で〝二色咲き〟という珍しい現象が起きた。
通常、一度に一色の花弁を降らせるはずのアマザクラが、同時に二色の花弁を降らせるという現象だ。峰上市では薄紅色と灰色の花弁が同時に観測された。
限られた地域でしか降らないアマザクラの中でもさらに珍しいその現象は、全国ニュースでも取り上げられた。番組内では科学的な裏付けのない曖昧あいまいな予想を学者が披露し、峰上市民の感想も流されていた。
しかし週に数回、ひと月に渡って〝二色咲き〟が降り続いたことで、冬休みに入る頃には日常の一部になっていった。
そんな十二月の終わり、学習塾での冬期講習を終えて、家に帰るその途中のこと。私は家の近くまで来たところで踏切に捕まった。そこは偶然にも、以前にアマザクラと心の関係について、愛里と話した踏切でもあった。
甲高い警告音を響かせる遮断機の向こう側に愛里を見つける。
「愛里ちゃん?」
彼女は顔を両手で覆い肩を震わせていた。
初めて見る彼女の泣き顔だった。足をくじいて運動会に出られなかった時も、小学校の卒業式でも泣くこともなかった彼女が、赤ん坊のように泣いていた。
――もう、消えたい。
涙をぬぐう腕の隙間から見えた口元が確かにそう動いた。次の瞬間、私は信じられないものを目にする。彼女の体が桜色に光り始めたのだ。街灯やイルミネーションを反射しているのではなく、彼女自身が暗闇の中でぼんやりと光っていた。
互いの間を轟音と共に電車が通り過ぎる。電車の風圧によって光は粒となって舞い上がった。光の粒はまるでアマザクラのように風にもだえながら地面へと落ち、やがて光は消えた。それと同時に愛里もその場に倒れ込む。
「愛里ちゃん!」
まだ上がりきっていない踏切をくぐり、彼女に駆け寄る。
「どうしたの? 愛里ちゃん! 愛里ちゃん!」
呼吸はしていたが、上半身を持ち上げると彼女の腕が力なく地面に横たわった。
その日から、峰上市ではアマザクラがぱたりと降らなくなった。

いくら検査をしても、愛里が眠りについてしまった原因は分からないままだった。様々な病気の可能性が否定されていくと同時に、私の中である考えが膨らんでいった。
愛里の心は、本当にアマザクラと繋がっていたのではないだろうか――。
アマザクラはまだ科学的に解明されていないことだらけだ。そのアマザクラが原因ならば、昏睡状態の理由が解明できないことにも、愛里が眠りにつく際に見た発光現象にも納得がいった。馬鹿みたいな仮説だと分かっていたが、だんだんとそれが私にとっての真実になっていった。

冬休みが明け、私は学校へ向かうために家を出た。
なにか忘れ物をしている気がした。停留所に着いてから鞄の中を確認したが、必要なものはすべて入っていた。鍵も閉め忘れてこなかったし、朝使ったトースターのコンセントも抜いてきた。なのに思考にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
「あぁ、そうか……」
ぽっかりと空いているのは私の右側の空間だった。
バスを待ちながら道を覗き込む彼女が、今日はいない。
愛里と暮らし始める前は一人で登校するのが当たり前だった。学校でも家でも大抵の時間を一人で過ごしていた。その状態に戻っただけなのに、氷を押しつけられたように心臓がひりひりした。
私は家へと戻り、愛里の部屋の戸を開けた。もちろんそこに彼女の姿はない。
私は一体、なにをしていたのだろうか。
アマザクラが愛里の心の内面に反応しているなら、アマザクラの異常は、愛里の心の異常だったはずだ。〝二色咲き〟という現象が起きた時、愛里の心の中でも今までにないことが起きていたことになる。
――もう、消えたい。
あの時、遮断機の警告音でほとんど声は聞こえなかった。だがあの瞬間を思い出すたび、はっきりと頭の中で彼女の声が響く。
愛里は、消えたいと願うほどの〝なにか〟を抱えていたのだ。にもかかわらず、私はそのことにまったく気付かなかった。
愛里の体が光り出したのは、彼女が〝消えたい〟と呟いたその時だった。アマザクラが彼女の心と繋がっていたという前提に立って思い返すと、あれはまるで、彼女の願いにアマザクラが呼応したかのようだった。
きっと彼女の心と繋がっているアマザクラが、彼女の心を守るために眠りにつかせたのだ。
打ち明けてほしかった。なんて言葉はあまりにも都合が良過ぎる。
私は一度でも、彼女の心に近づこうとしただろうか。深く踏み込まない関係に甘えて、距離を取っていたのは他でもない私なのだ。
愛里が眠りについてから、たくさんの人が彼女の身を案じた。沙里さんも、中学の友人も、教師も、彼女の目が覚めることを祈った。
彼らの中にも、愛里が思い悩んでいたことを知る者はいなかった。私だけの責任じゃない。私が悪いわけではない。そんな醜い自己弁護を心の中で唱えるたび、むしろ罪悪感は広がっていった。
あの日、私の手を引いて母親から一緒に逃げ出してくれた彼女に、私は少しでもなにかを返していただろうか。私がもっと彼女を気遣っていたなら、彼女と信頼関係を築けていたなら、この悲劇は避けられたかもしれない。
「ごめんなさい……」
受け取る人間がいない場所での謝罪は、実に空虚で、なんの価値もないものだった。
「分からなかったの。ずっと一人だったから……」
人を大切にするやり方も、誰かを思いやる方法も、私は知らなかった。
だから今も、なにが愛里を追い詰めていたのか、想像すらできない。
答えを彼女に尋ねることはもうできない。情けなさと無力さが足の先から湧き上がり、それが全身を満たした時、目から一滴の涙がこぼれ落ちた。
悲しむ資格などないだろうと、心の中に住む冷たい目をした私が吐き捨てた。

看護師が去って、病室にはまた私と眠ったままの愛里だけが残された。
沈黙が私を締めつける。窒息できない程度に弱く、忘れることはできない程度にきつく。
ベッドの脇に設置されたテレビ台には、彼女が眠っている間に持ち込まれた様々なお見舞い品が並んでいる。所属していたバスケ部から送られた色紙と千羽鶴、クラスメイトからのメッセージが録音されたMP3プレイヤー、花が活けられた花瓶。すべてが彼女の目覚めを願って贈られたものだ。
そこに積まれた愛情と同じ分だけ、私の心は重くなる。罪滅ぼしをしなくてはと、気持ちが焦る。
病室の扉がノックされた。看護師が戻ってきたのかと思ったが、扉を開けて入ってきたのは私と同じ九重高校の制服を着た少女だった。
「ごめん、ちょっと遅れた。班を離れる前に、先生に捕まっちゃってさ」
神屋敷かみやしきツバサが、気まずそうに肩をすくめた。

私が守りたかった偽りの世界。君が教えてくれた真実の世界。

サクラの降る町 ―白ノ帳―

私が守りたかった偽りの世界。君が教えてくれた真実の世界。
  • 著者 | 小川晴央
  • Illustration | フライ
  • 発売日 | 2021年12月10日(金)
  • 価格 | 713円(税込)
  • ISBN | 978-4-910052-24-3