試し読み

 先ほどの人間が白い砂浜の上で立っているのが見えて、マレは慌てて近くの岩の陰へと隠れた。そこから様子を眺めていると、人間がおもむろに全身を覆っていた黒いものを脱ぎ捨て、その中からマレの上半身と同じ肌が露出される。しまいには両足についた青いヒレも脱ぎ捨てた。

「脱皮……人間が脱皮したわ!?」
「脱皮じゃないよ。あれはウェットスーツってやつだよ」

 独り言に背後から返されて、マレはトビウオのように海面を跳ねた。振り返ると海面をウラシマがプカプカと浮かんでいる。

「マレ様、早く戻らないと泡になって消えちゃうよ?」
「そんなことあるわけないじゃない。それにまだ誰にも見られてないわ」
「あの人間をらしめるの?」
「そうよ。もう我慢ならないわ。おびえながら暮らすのはもうおしまい」
「でもさっきからずっと隠れて見てるだけじゃん。怖いんでしょ」

 気が付けばあらんばかりの握力で岩を掴んでいた手をパッと放す。

「怖くない! ただ、ほら、初めて見る生き物だから……そう、まずは様子見なのよ」

 マレは自分に言い聞かせるように言って向き直り、岩場の陰から浜辺を見つめた。ウェットスーツを脱いだ人間は、脱いだそのままに浜に座り込んで海をただじっと見つめていた。

「あれは男かしら。見た目は案外普通だけど、あいつもきっと魚を取って食べてたんだわ」
「違うよ。あれはダイビングっていうんだ。人間も海にもぐって海の中を見るのが趣味なんだよ。僕の仲間は陸の近くに住んでいるから、人間のことならいっぱい知ってるんだ」
「なにそれ。自分たちで汚しておいて勝手な奴らね」

 汚したり楽しんだり、人間のやることが理解できないとマレは浜辺に座る男の顔をにらみつけた。すると、見た目はマレとそう年齢の離れていない少年の瞳から、一筋の水滴がほおを伝って流れた。

「見た? 今、目から水が出たわ。なにあれ、毒かしら?」
「あれはね、涙っていうのさ。知らない? 知らないよね。マレ様たちは涙を流さないから」
「なみだ……それは何の意味があるの?」
「人間は悲しいときや痛いときに涙を流すんだって」
「じゃああの男は、悲しいの? それとも痛いの? どこか怪我けがしたとか?」
「マレ様、なんだか心配してる?」
「し、してないっ!」

 もうっ、と小さく言ってマレは海中へと潜り込んだ。

「どうしたの? もういいの? 人間を懲らしめないの?」
「言ったでしょ。とりあえずは様子見なの。それに陸に上がられたらどうしようもないもの」
「そーゆーことにしておいてあげる」
「ほんと生意気ね」

 しかしマレは帰る方向ではなく、先ほど人間の少年が潜っていた方向へと泳ぎ出した。

「どうしたの?」
「ダイビングは楽しむためのものでしょ? でもあの人間は悲しんでいたんでしょ? 矛盾むじゅんしてる。何か理由があるはずよ」

 確信を持って突き進むと、海面にまで飛び出た大きな岩山を見つける。海中からはまるで壁のように見える岩山のふもとに白いものを見つけた。マレはその瞬間、潜在的な恐怖がよみがえった。

「これ知ってる……船よね。人間が私たちを捕まえるために海の上で乗っているやつ」

 憎しみを込めて言うと、マレは普段なら逃げる対象である船へと迫った。
 船は既にび付いていて、かなり長い間その場に放置されていたことがわかる。
 案の定、船には誰もいなかった。小さな魚や貝たちが隠れ家にしているくらいで他に目新しいものは見つからない。しいて言えば、船自体が目新しく、マレは見慣れない装置を興味深げに触ったりした。とかく人間とは複雑なものを造る。人間が海に落としていくゴミの中には、マレにとって興味深い物も多く、人間の器用さは畏怖いふと共に感嘆すらしている。
 逆さになった船の床から突き出た、小さな部屋のようになっているところには、人間の所有物が散乱していた。その中にはキラキラと光る石や、何に使うのかわからない四角い板のようなものまである。
 気付けば好奇心へと変わっていたマレが船の中を見回っていると、すぐ傍の岩山の根本に、洞窟のような穴が開いているのを見つけた。見逃してしまいそうなその洞穴に、しかしマレは直感で何かを感じ取り入っていく。誘われるように奥へと進んでいくと、そこは明らかに何者かの手が入った洞窟であることは明白だった。
 だがかなり崩壊が進んでいる。地面には崩れた瓦礫がれきなどが無数に散らばっており、今にも崩壊してしまいそうな様相だった。いよいよ進む先をふさぐように瓦礫が山を成していたが、マレはその隙間を何とか体を通して進んだ。

「マレ様、行かないほうがいいよ」

 後ろから付いてきていたウラシマが、隙間の向こうから言った。

「なによ、怖がっちゃって」
「僕ここ嫌い」

 なぜかおびえるウラシマをしり目に、マレは反転して奥へと進む。
 すると壁面に画が描かれているのを見つける。宮殿画家の絵がいくつか部屋に飾ってあるが、そのどれとも違う、もっと前時代的なものを感じさせる。
 その壁画では、マレと同じ半人半魚の人魚族らしきものたちが並んでおり、彼らは巨大なタコのような生き物の前にひれ伏している様子が描かれていた。

「これきっと、神話の帝王ダコだわ」

 海の世界に広く伝わる創造神話がある。それは地域によって違いはあれども、その中にかつて海を支配していた巨大なタコのような神獣がいて、それを人魚族が打ち破ったというものがある。ニライカナイはその褒美ほうびとして神々から頂いた土地であり、マレの一族は神々から未来永劫海の統括を任されている、というものだった。神槍はその証である。
 壁画は先へと続いていた。今度は人魚族が手に槍を持ち、帝王ダコと戦っている。その中に、弓矢を向ける真っ赤な髪の女性の姿がひときわ大きく描かれていた。マレはその女性の画をそっと指でなでる。

「これ……誰?」

 次は、ニライカナイと思われる街を背後に、楽し気に踊る人魚族の様子が描かれている。その玉座に座るのは、先ほどの弓を持った赤い髪の女性だった。一層気になったマレだったが、その先は崩れた岩が隠してしまい見られなくなっていた。

「これ多分、ニライカナイの歴史が描かれているのよ。王国ができるまでの神話をたどっているんだわ」

 消えかかった壁画を指でなぞりながら、マレは確信を持ってつぶやく。気の遠くなるくらい昔に描かれた壁画に、どこか描き手の念のようなものさえ感じ取る。まるでその念に引っ張られるかのように洞窟を奥へと進んでいくと、真っすぐ横に進んでいた洞窟が、急上昇し始め垂直に上へと向かっていた。その道中も壁画は続いていて、見るに長い歴史の中で人魚族は何度も争い勝利を勝ち取ってきたのだろうとわかる。洞窟は地上へと続いていて、マレは泳ぐ速度を上げ、勢いよく海面へと顔を出した。
 そこは巨大なドーム状の空間が広がっていた。外から見た大きな岩山の内側が空洞となっているのだろう、マレの髪からしたたり落ちる水の音が、空洞内で反響する。ドーム状の天井の一部の亀裂から、太陽光がわずかに降り注いでいる。円状の水面の真ん中に数メートル四方の岩地ができており、その中央に何やら台座のようなものがしつらえられていた。

「何も……ない」

 少しがっかりしながらも、マレは台座の奥に見えたひときわ大きな壁画に目を奪われる。
 海中から続いていた壁画の物語は、海面から上がり空洞内の壁を伝って最奥へと続いている。それは先ほどの赤い髪の人魚が、両の脚を付けて陸地に上がっている姿だった。そして立派な一本の槍を手に堂々と立つ姿。そしてその彼女にひれ伏す人間の姿だった。

「綺麗」

 思わずマレの口からそうこぼれた。遥か昔に描かれた古代の壁画に違いない。手入れもされていない遺跡に放置され、その壁画のほとんどはかすれて消えかかっている。その絵もお世辞にも美しいタッチとは言い難い。
 だがどうして、マレには得も言われぬ感情が湧きたっていた。凛々りりしく人間たちを支配するその姿が、ひどく美しい。心が打ち震えるようだ。

「あの赤い髪の人、歴史で学んだことがないわ。きっと人間を支配していたのよ。あの槍も、お父さんが持っている神槍と形は違うけど似てる」

 何の根拠もないが、マレには確信に近いものがあった。

「ここはきっと隠された遺跡ね。何か私の知らない真実がここに描かれているに違いない」
「マレ様、そろそろ帰ろー! みんなが心配するよ!」

 釘付けになっていたマレに、遠くからウラシマの声が響いてきて意識を引き戻される。
 しばらく家に帰らないことは頻繁にはあるが、昨日の今日で悪目立ちしては今後も動きづらくなる。マレは後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。

     〇

 洞窟を出たとき、マレたちを巨大な黒い影が覆った。
 反射的にウラシマが慌てふためきマレの背後に隠れてしまう。何事かと顔を上げると、マレたちの頭上を何倍も大きな黒々しい魚が三匹、優雅に泳ぎ回っていた。
 流線形の体。鋭く飛び出たヒレは触れる者をすべて切り裂いてしまいそうなほどで。両脇まで裂けた口からは、獲物を一瞬で絶命させる鋭い牙が飛び出ている。

「サササ、サメだ……食べられるるる」

 マレの背後でウラシマが震える。
 獰猛どうもうな捕食者で分別のないサメは、基本的にほとんどの海の生き物からは野蛮な存在として恐れられている。海の生き物同士で捕食し合うことは当然あるが、サメは秩序を度外視し本能の赴くままに仲間を食らう。王国でもタコの次に嫌われていると言っても過言ではない。かつて帝王ダコに付き従い海を我がもの顔で跋扈ばっこしていたのもサメだといわれている。
 そんなマレを五人分はひと飲みできそうな巨大なサメが三匹。

「おいおい。ニライカナイのお姫様だ」
「本当だ。由緒正しきティダ王の愛娘がどうしてこんな辺鄙へんぴなところに?」
「おかしいねぇ。いや面白いねぇ。美味しそうだねぇ」

 腹のあたりまで裂けた大きな口で、サメたちはそう愉快に笑う。

「駄目だよ駄目。お姫様を食べてしまったら、いかに鈍重なティダ王といえど、俺たちを捕まえに来る」
「その通り。だからこれは食っちゃいけない。でも後ろのカメは別かな」
「別だな。カメ好きだ。バリバリバリって、音がいい!」

 またそう言って笑うサメたちに、ウラシマは手足首をできるだけ縮こめて丸くなった。

「ウラシマは食べちゃ駄目! この子は私の友達なの!」
「知ったこっちゃない。お姫様、あなたが王女なのは王宮の中だけだ。ここは誰にも縛られない広い海の彼方だぜ?」
「世間知らずの箱入り娘。生きる世界が狭い狭い」
「何も知らない! 何もわかってない! 何もできない!」

 一匹が脅すようにマレの目の前まで近づき、大きな口を開いて閉じる。しかしマレを食べることなく、目の前を左方へと泳いでいった。

「やっぱり甘やかされて育ったお姫様は怖いもの知らずだぜ」
「どうせ食われないとわかっているからね。おろかな王でも威光だけは抜群さ。しかし簒奪さんだつ者の娘らしくいやしい顔をしているよ。私たちの家まで奪うのかい?」
「憎たらし! 食いたい! でも食えない!」

 三匹は言いたい放題言って、またゲラゲラと笑う。

「ねぇ、さんだつ者ってなに?」

 マレは言葉の一つに引っかかり、サメたちは顔を見合わせてまた笑う。

「やっぱり知らないぜ。娘には話さないのか」
「そりゃそうよ。自分たちが偽りの王家だなんて言えるものか」
「偽りの王! 偽りの王!」
「どういうこと? もしかしてそれって、あの遺跡の絵と何か関係あるの?」
「ああ、見てしまったのか。あれを」

 一匹のサメが苦笑気味に言ってマレの目の前まで降りてきた。一歩進めば口の中に飛び込んでしまいそうな距離で、しかしマレは逃げ出しそうになる気持ちを抑えてその場に立ち尽くした。そしてにらみつけるサメの目を、一層気を強くしてにらみ返した。

「ほう。簒奪者の娘にしては、気概がある」
「聞かせて。あの壁画の意味を」
「あそこに描かれていることこそが、ニライカナイの本当の歴史なのさ」
「本当の、歴史? やっぱり!」
「そう。見たろう? 赤い髪の人魚を。あれこそがかつて海を支配しニライカナイの主として君臨していた真の王さ」

 真の王。その言葉が意味するところは一つ。

「だから、お父さんが、偽物の王だと?」
「そうさ。女王はすべての海を支配し、陸をも支配し始めていた。あの頃は素晴らしかったらしい。海は栄華を誇り、すべての海が、何におびえることもなく生き生きと暮らしていた。何百キロも先を見通せるほどに透き通った美しい海が広がる楽園だったと聞いている」

 サメは楽園を夢想するように恍惚こうこつとした表情で天を見上げた。

「あの遺跡はそれをたたえた場所なのさ。しかし争いを恐れた逆臣どもが、人間どもと結託して女王を罠にはめたんだ」
「その逆臣って、まさか……」
「ティダ王さ」

 マレの言葉を奪うように、サメは冷たく言った。
 彼女の中に何かがビリリと駆け抜けた。

「ティダ王らは陸の支配を進める女王に手を貸さず、逆に一緒になって女王を倒したんだ。そうすることで海の支配権を我がものにし、人間と互いに不可侵の条約を結んだんだよ。見てるだろう? 人間に対して弱気なティダ王の姿を」
「そうだったんだ……おかしいと思ってたの」
「だろう? 人間どもは条約も忘れて海でやりたい放題。なのにティダ王は未だに条約をかたくなに守って見て見ぬフリ。なぜ? 決まっている。余計なことをしたら、人間に滅ぼされると恐れているからさ!」

 サメは言って、また高々と笑い出した。つられて二匹のサメも高笑いし、不吉な笑い声だけが場を支配した。

「おかしいと思わなかったかい? ティダ王が持つ変に曲がった神槍、あんな形の槍があると思う? 槍の刃も付いちゃいない」
「それは思っていたわ。なんであんな変な形なんだろうって……どうしてなの? 教えて!」
「好奇心だねぇ。好奇心は猫をも殺すって人間の言葉を送るよ。本当に知りたいのかい?」
「知りたい! ずっとおかしいと思ってたの! 私は、本当のことを知りたい!」

 確かめるように、サメはマレの瞳をじっくりと眺めた。

「いい目だ。お前は王になる素質があるのかもねぇ。ティダ王が持つ曲がった槍は、弓なのさ」
「弓?」
「そう。弓には矢が必要だろう? 元々、弓と矢で一つの神器だったのさ」

 ふとマレは壁画を思い出す。確かあの赤い髪の人魚が弓を手にしていた。女王はあの弓に倒されたのだろう。

「待って。じゃああの遺跡の台座には、その矢が置いてあったとか?」

 ピンと来たマレがそう言うと、サメは感嘆と小さな声を漏らした。

「その通りさ。じゃあどうしてあんな場所に矢が隠してあったと思う?」
「……もしかして、倒された女王が、その矢に封印されている……?」
「賢いねぇ。一を聞いて十を知るとはこのことかい! 海の未来が楽しみだよ」

 点と点がつながっていく。思っていたことがことごとく的中し、奇妙な心地よさを感じてしまう。これは何かの運命に突き動かされている。マレはそう確信した。

「ねぇ、その矢はどこにあるの? 封印ってことは、まだ女王は生きているのよね?」
「落ち着きなよ。元々女王が封印された神矢かみやは、生き延びた臣下たちが持ち逃げてその遺跡に一緒に隠されていたのさ。いつか復活するときを願ってね。だけどね、丁度、そうだよ。マレ様が生まれた日に、誕生祭があったろう? 世界中の海の生き物たちがその誕生を祝ってどんちゃん騒ぎをしていたときに、地上では大変激しい嵐があってね。度重なる落雷で遺跡の一部がついに崩落して外にむき出しになったのさ」

 あ、とマレは思い起こす。ドーム状の遺跡の中で、一部亀裂が入っていたことを。

「あそこから人間が持ち出したのさ」
「どうしてそんなことするの? 女王は人間を滅ぼそうとしてるんでしょ?」
「人間は汚いのさ! かつて結んだ条約なんざ、代替わりしたらお構いなしだ! 女王の封印された神矢は、神槍に匹敵する魔力を秘めている。かつて海を支配したパワーが眠ってるんだよ? それがあれば何ができると思う?」

 そうさ、とサメは続けた。

「海も空も、すべてを人間が支配する気さ」

     〇

海姫マレ

  • 著者 | 西川 昌志
  • Illustration | 高瀬 亜貴子
  • 発売日 | 2022年3月18日(金)
  • 価格 | 734円(税込)
  • ISBNコード | 978-4-910052-27-4
  • 発行元 | 京都アニメーション
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